頑張るには

仕事もうまくいかなかった。プライベートでもおかしくなった。私は無能だったか。無能だったかもしれない。無能でも食っていかねばならない。その時に結局自分の得意なことを活かして、極力効率良く頑張ろうとするのではないか。それでは今得意なことで頑張ろうとするのと違いはない。違いは自分の周りに自分の過去を知っている人たちがいるかどうかでは。だから周りの人たちが私の過去を知らないと思って頑張ってみるのはどうか。

ビジネス書での学びは生活に活かせるか。

ビジネス書での学びは生活に活かせるか。難しい本を読んで勉強した気になったりする。しかし、その本を読んで学んだことを思い出そうとするとあまりない。「知的トレーニングの技術」という本に対して私の場合当てはまる。ビジネス書を読む。自己啓発書ともいえるか。それらの本の内容は記憶に残る。わかりやすい文章で書かれているからだ。極力外国人の本を読もうかと思っている。国を超えて広まるほどの物にはある程度内容が信用できるのではないだろうか。日本という狭い国の中の人にだけ意見を傾けるのは得策ではない気がするのだ。

旅行の感想 沖縄・宮古島

沖縄と宮古島に行ってきた。学がなさそうな人たちをたくさん見かけて、自分とこういう人たちを差別化するために、たくさん勉強しようと思った。ずっと在宅なので他人を目にする機会がなかった。知り合いでさえも最近は避けてきた。人を見るということを思い出した。人と実際に話して、見て、感じることで生まれるものもある。これが一次情報というやつなのか? たくさん勉強しようと思うが少し自棄になっている部分もある気がしてきた。もうそれしか残っていないように感じる。正しい意思決定を行えるようにするため、論理性・合理性を勉強しようとした。しかしそれだけで世の中のことは解決しないのだ。昔の自分に何ができただろう。何か変わったのだろうか。歴史の意味は、自分の過去を知る意味は、未来はどの程度意識すればよいか、過去からどれほど学べばよいか。友情さえ本から勉強しようとしている。自分で考えなければならない。決めなければならない。決めたことに従って生きていくのだ。だから決めるときはうんと頭を使って考え抜かなければならない。自分で決めたとおりに動くのだ。それを他人から非難されたとして、それはどの程度意味を持つのだろう。最近、一時的にたくさん勉強すると(と言っても1,2時間程度だが)頭が疲れてくる。思考力が鈍る感じがしてくる。そういうときこそもっと追い込みたい、と今は思える。

取捨選択

薦められて、「エッセンシャル思考」という本を読んでいる。オーディブルでは「イシューから始めよ」という本を読んでいるが、これらの本を読んで思うことは、取捨選択が重要であるということ。トレードオフともいえる。何かを選ぶことは何かを捨てることなのだ。何かを捨てることで本当に有用なことを選ばなければならない。では、どう捨てるべきなのか。これが目下の重要な問題意識だ。

ブログを書くことを習慣化したい

これからブログを書くことを習慣化していきたい。時間は21:30~10:00が目安。本を読んだりしてその日勉強したことをまとめる。頭の中で考えていても前に進んでいる感じがないから。書くにあたり、そこまで肩肘は張らない。立派な文章を書こうと思うと習慣化するハードルが高くなるから。おいおい良い文章を書けるようになりたい。Twitterで本を紹介している方のアカウントがあり、よく見ている。その方が書くnoteのコラムは文章が非常に美しい。目標としていきたい。

仕事をする中でこの人はすごいなぁと思う人が何人かいた。共通しているのは直接的なことは言わないことだ。「やる気を出せ」と言っているわけではないのに、なぜか周囲をモチベートさせることができる。勝手に影響を受けているだけかもしれないが。心からすごいと思う。しかしそれを目指しても自分が到達できないだろうことは分かる。わかるというかなんとなく自分には無理だろうなと思う。明るくなれないのと同じだ。自分も冗談を言って場を和ませたり、そういうことはできないだろうと思う。

最近は「知的トレーニングの技術」という本を読んでいる。これは良書だと思う。まだ初めの方で、知的なトレーニングをしている感じは正直しないが、繰り返し読める本を探していたのでちょうどよかった。「思考の整理学」という本を繰り返し読もうかと思っていたが、あれは内容があるようでないというか、研究者には良いのかもしれないのだが、仕事などに適用しようとするとうまく適応できなかった。

「知的トレーニングの技術」では、モチベーションを上げるために伝記を読め、と書いてあった。ある意味なるほどなと。また、精神的に調子が悪い時は、数学やアカデミックの本を読むと良い、とも。小説の細かな表現に悩まされなくてよいと。確かに。夜は重力の勉強を真面目にしてみるのもありか。それか三体などのハードSFを読んでみるのはどうか。よさそうである。伝記はゴールデンカムイのおかげで新選組関係を読んでみたいと思っている。

何か夢中になれることはないか、やりたいことはないかずっと考えていた。本を徹底的に読んでみては? いい考えだと思う。これを書いているのもその一環だ。本を読むのは勉強しなければならないと思うから。成長しなければならないと思うから。それだけだろうか? 好奇心? 何かを満たしたいのだ。ただやはり寝る前に目的もなくYoutubeの動画をあさるのはそろそろ違うのではないかと思うのだ。

「嫌われる勇気」を読んでアドラー心理学に傾倒し、「今」に焦点を当てようとした。過去はなかったものとして、今の自分なら頑張ればきっといろいろなことができるはずだと。それが多くの過ちを生んだ気がした。それで過去を振り返った。自分のルーツを幼少期の記憶や子供の頃の環境に探した。とりかかろうとして、なかなか普通の精神状態では続けれらなさそうだったからいったん中断しているが、てごたえはあった。続けようとするとこれは大変なことだ。それに結局、周りのせいにしているだけではないのか? そう思うと正しいことをやろうとしているのか分からなくなる。正しいことも間違っていることもない。良い悪いも決定されることはない。

ただこう言うことも先人が考えて答えを出してきたのならやはり本を読む意味はあるだろうと思う。どこかに書いてあるだろう正解を探すのは途方もない。仮の答えを持っておくべきか。しかしこの仮の答えをきちんと修正していくことができるだろうか。決めてしまった後に仮とはいえ、修正できる自信がない。
30分ほど書いたので今日は終わり。書ききれていないことのワードを残す。責任について。

今までとこれから

29年生きてきて自分に関して分かったのは、「自分は大した人間ではなく小物なのだ」というそれだけなのだろうか。しかも大半の時間をそうと気づかず生きてきた。

某Youtuberのイベントに行った。迷惑になるかもしれないから名前は書かない。とても元気が出た。

やりたいことを探している。夢中になれること。責任を取れること。

感想『紅蓮館の殺人』

★★★★☆ Audibleにて。最近読んだ若手ミステリ作家の作品の中では一番良かった。館での殺人。ワケアリの容疑者達。探偵と元探偵の共同戦線(?)。「探偵」の存在意義に葛城が拘るところは若干くどく感じたが、最後まで読んで飛鳥井の言動も含めると、まあまとまったのかなあ、という感じ。小出が男口調だったのでAudibleで聞いていた自分は若干混乱。総じて最初から最後まで面白かった。本作の探偵役の葛城は「推理力」ではなく「観察力」派か。言うなればクイーンタイプではなくホームズタイプ? 一つ残念なのは文章の表現。小説では例えば悲しいときには「悲しい」と書かず、行動や表情、その他何らかの描写によって登場人物の内面を描き出す。それにより、一言では説明されない感情のリアルさが生まれる。これが小説の一つの醍醐味だと思っている。この小説では、表現が直接的。上の例で言えば、悲しいときは「悲しい」と書いてある(読みやすいことの裏返しでもあるか)。本作はミステリであり、細かい表現方法よりも推理やトリックが主たる楽しみであるため、無粋な指摘かもしれないが、ミステリとして多くの要素を含み、とても面白かっただけに表現の部分も気になってしまった。ただ犯人の心理描写だけはかなりリアルに感じた。